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イラン触発される

イラン触発される

テヘラン

テヘラン は、西アジア、イランの首都でありかつテヘラン州の州都。人口12,223,598人。都市圏人口は13,413,348人に達する。

テヘランはイランの文化的中心でもあり、多数の博物館、美術館、宮殿、文化センター、高等教育機関を擁する。宗教的中心でもあり、モスクのみならず、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグも各所にみられる。住民の大多数はシーア派イスラム教徒。20世紀から21世紀にかけて、イラン各地から大量の人口流入があり人口が急増した。

テヘランの住民は、ペルシア人が大多数を占めている。他には少数のアゼルバイジャン人、アルメニア人、ユダヤ人などもいる。住民の98.3%はペルシア語を話す。

歴史

建設と発展
1857年のテヘランの地図。この時期はいまだ旧城壁のままである
1857年のテヘランの地図。この時期はいまだ旧城壁のままである
この町の起源ははっきりはしていないが発掘調査からは紀元前6000年の住居跡が見つかっている。9世紀には南8㎞にある近郊のレイ(ペルシア語版、英語版)(ペルシア語: ری‎、転写: raj、Pronunciation: rā)がこの地域の首邑であり、テヘランには村があったものの何ら注目を浴びていなかった。1220年、レイがモンゴル帝国に襲撃され徹底的に破壊されるとレイの人々はテヘランに避難し、この時から都市としてのテヘランの歴史が始まった。当時は「レイの人々のテヘラン」などといわれた。14世紀、テヘランは名の知られた町になり、1404年、カスティーリャ王国のエンリケ3世がティムール帝国に派遣した大使であるルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホがサマルカンドに赴く途中にこの町に立ち寄った。これが西洋人がこの町に足を踏み入れた最初である。この時代までは町には城壁がなかった。17世紀にはサファヴィー朝の支配者たちの住居も作られた。1553年から1554年にかけて、タフマースブ1世はバザールと城壁を作り、商業機能と防衛機能を強化されたテヘランは次第に大きな町となっていく。しかしアッバース1世がウズベクとの戦いに行くためにテヘランを通ったとき、王は病気となり、その後、王に嫌われた町となってしまった。18世紀、ザンド朝のカリーム・ハーンはテヘランに宮殿とハーレムの建設を命じ、政府機関も移転する予定であったが、都は最終的にシーラーズになってしまう。

ガージャール朝時代
サアダーバード宮殿内の緑の宮殿。ガージャール朝時代に夏の離宮として建設された
サアダーバード宮殿内の緑の宮殿。ガージャール朝時代に夏の離宮として建設された
テヘランがイランの首都になったのは1795年、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーがこの地で戴冠したときである。彼はゴレスターン宮殿(英語版)の造営を開始したものの、この時期にはまだ城壁はタフマースブ1世時代に建設されたものと全く同じ規模であった。この小規模な城壁では増大するテヘランの人口を収容しきることはできず、北部城外には富裕層の、南部城外には手工業者たちの居住地が建設されるようになっていた。ガージャール朝4代国王であるナーセロッディーン・シャーはこの状況を改善するため1869年より城壁の大拡張を行い、8角形で全長16㎞、12の門を持つ新たな城壁が1874年には完成した。旧城壁は撤去され、1889年にはその跡地に鉄道馬車の路線が敷設された。1892年にはテヘランから南のレイまで鉄道が開通し、徐々に近代化が進んでいった。しかしガージャール朝の衰退とともにテヘランにも不穏な空気が漂うようになり、1905年には物価高騰からバザールの商人を中心とした抗議行動が起き、やがてテヘランから全国へと波及して1906年にイラン立憲革命が起こった。テヘランでは議会が開催されたが、内紛によって弱体化するのを見た国王モハンマド・アリー・シャーは軍事力で議会を解散させる。しかし立憲派のこもるタブリーズを陥落させることができず、逆に立憲派の反攻を招いてモハンマド・アリー・シャーは退位しロシア帝国へと亡命して、テヘランを奪回した立憲派はアフマド・シャーを即位させた。しかしイギリスとロシアの介入によって立憲革命は失敗に終わり、ガージャール朝は支配力を失った。これに対し、1921年にはレザー・シャーがテヘランでクーデターを起こして政権を奪取し、1925年には議会によって皇帝に推挙され、ここにパフラヴィー朝がはじまった。

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ケルマン

テヘランから約1000キロ、イラン南東部に位置する砂漠気候の町です。約4000年前から人が住み着いていたことがわかっています。また、各時代の重要な都市として歴史上にその名をあらわしています。
年間降水量が少ないため、灌漑は地下水路に頼っています。

Site
見所
Bazar: バザール・サルタサリ
市内中心部に位置し、中にはギャンジャリ・ハーン公衆浴場やチャイ・ハーネなどもあります。また、昔の隊商宿も保存されています。

Rayen: ラーイェン城
ケルマン市街地から南に約100キロのところにあります。王族の住居や拝火堂などが建てられ、世界遺産・アルギ・バムと似たようなつくりになっています。150年ほど前までは実際に人が住んでいたという記録が残っています。

Shazudeh bagh:シャーズデ庭園
海抜2200メートルに位置し、ガージャール朝の王族の保養地として使われました。広い敷地の真ん中には壇状の水路が作られ、周りの木立とともにオアシスの景観を作っています。入り口はアーチのある2階建て、奥はテラスのある2階建ての建物があります。現在では、ケルマン人の憩いの場所としてにぎわっています。

Bam:バム
世界でもっとも大きな日干し煉瓦造りの城です。4つの四季ごとに住み分けられたと思われる住居、兵士の待機所、井戸、学校、スポーツ所などが造られていたということが分かっています。
2003年の大地震により破壊され、2004年にはユネスコ世界危機遺産として登録されました。現在では大分修復が進み、観光客の数も年々増えています。

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