イラン旅行3日目①:ニセ運転手現る
アフヴァーズ~シラーズへ深夜バスで移動し早朝5時前に到着。
降りるとタクシーの運転手が群がって来ます。
やはり送迎は手配しているので、呑気に下りて簡単な荷物整理。
終わった頃には群がっていた運転手もいなくなっています。
ターミナルの出口辺りに送迎の運転手がいる筈なので向かおうとしたその時、.
一人のんびりとこちらに歩いて来るおじいちゃんがいます。
おじいちゃん「タクシー?ホテルSasan?」
え?私が今日泊まるホテルです。
どう見ても回りには私しかいないし、相手を間違えている訳でもないです。
予約したタクシーなのか英語で聞いてみるも、英語は分からない様子。
ペルシャ語会話集で聞いてみたところそうだとの事。
旅行会社が英語が分からない運転手を寄こすかな?と疑問に思ったものの、
勘でホテル名を一発で言うなんて事もそうそうない筈です。
時間も時間だけにそれ以上確かめる術もなく、取敢えず乗る事にします。
まぁ、最悪このおじいさん相手なら、荒事にもならないでしょうしね(^^;
ホテル着いたらお金が欲しいと言い出す。おじいちゃん。
あぁ、やはり違ったかと納得(笑
取敢えずホテルに入って英語の分かるスタッフに事情を説明してたら、
本物の運転手さんがやって来ました。
ターミナルの入り口で待っていたのにどうして来なかったんだ?と、少々ご立腹気味。
うん、そりゃそう思うよね(^^;
取敢えず事情を説明したら本物の運転手さんもビックリしたけど、こちらも事情も分かってくれて、
おじいちゃんに何でそんな事を言ったんだ?と代わりに話を付けてくれました。
ごめんね。本物の運転手さん。
おかげで一息入れられました。
軽く一休みした後は観光に出発。
今日のガイドは今回のイラン旅行の相談の窓口になってくれていたシラーズの旅行会社のSさん。
そして運転手は、あ、朝のおじさんだ!
改めて今朝の事を話しながら3人で観光に出発します(笑
Sさんはご主人がイラン人で、ご主人が日本に留学中に知り合ったそうです。
留学中にイスラム革命が起きたのでそのまま日本で生活していたそうですが、
イランの男性は40歳頃に里心がつくそうで、イランに帰りたいと言うご主人と一緒に家族でイランへ来られたそうです。
言語・生活・文化・宗教等全く違う所への旅行ではなく移住。
旅行では気にならない事でも、生活って毎日の事ですから慣れるまでかなり苦労がありますよね・・・。
●マスジェデ・ナスィーロル・モルク
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1,887年に完成したモスクで美しいタイル装飾は勿論ですが、何と言っても一番の特徴はステンドグラス。
朝日が差し込むと、その美しい色を内部に照らし出します。
夏場は下半分に外にカーテンが掛けられてしまいその魅力が半減、そして今朝は曇りどうなるかと思いましたが・・・。
途中から日が出てくれた&カーテンが無かったです!
冬には建物のもっと奥まで光が差し込むそうですが、十分に綺麗です(^^
ところでこのモスクの塔の先端は珍しい手の形になっています。
邪視から身を守る護符だそうですが、Sさんによるとシーア派?の一族が一時逃亡生活を送っていた際に、
食べる物も飲む物も無くなってしまい、せめて子供達の分だけでもと探しに行ったが手を切られてしまった悲劇が元らしいです。
イランでは勉強の事などをこの手に祈願をするそうで、日本言えば湯島天神と言ったところでしょうか。
でもちゃんとお礼参りをしないと怒られるそうです。
イスラム教は偶像崇拝禁止の筈なんですけど、宗派の解釈によってはこう言うのは大丈夫らしいです(^^;
●ペルセポリス
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アケメネス朝のダレイオス1世が紀元前520年に建設を開始。
以後その子供達が増築を続けて、125,000~130,000㎡もある巨大な都市です。
宗教上の首都で、実際の政治上の首都は先に訪れたシューシュであったと言われています。
西はエジプト~東はインドまでの版図を持った、当時世界最強の帝国の力の一端を感じられます。
しかし、その絶大な力を持った国も、マケドニアのアレクサンダー大王によって敗北、
ペルセポリスも後日火事により焼失しました。
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シューシュと違って建物や門が保存されているので、都市の凄さを実感し易いです。
謁見の間には各国からの使者の様子がレリーフに掘られていて、非常に国際色豊かな帝国だった事も分かります。
こんな強大な国家に普通は戦争なんてしようとは考えないと思うのですが、
やはりアレクサンダー大王が異常なんでしょうね。
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こちらでは日本から来たご家族に会いました。
旦那さんがイラン人で普段は日本に住んでいるそうですが、初めて小学生の子供を連れて来たとの事。
イラン人の義姉さん達と一緒に回られていました。
この日も熱いので私はタオルを頭に巻いていたのですが、イラン人から見ると不思議な光景で面白がられていました。
そう言えばこれだけ暑いのに、イラン人で帽子を被っている人を見てないです。
唯一の例外がアフヴァーズのガイドのコヴェさんだけでしたが、Sさんに聞いてもやはりほとんど見た事がないとの事。
暑さに対する耐性が違うんでしょうか?(^^;
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Title:
イラン旅行3日目②:信奉されし王
ペルセポリスを見学後は近くにある2つの遺跡へ行きます。
●ナグシェ・ラジャブ
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サーサーン朝の大きなレリーフが残っています。
場所自体は小さいのでサクッと見れます。
元々はここにはチャイハネがあったそうなんですが、拡張工事をしようとした時に偶然発見されたそうです。
イランも歴史が古いのでローマ同様に掘ると何か出る事が多く、つい最近も幹線道路計画が頓挫した事があったそうです。
出入口のすぐ側に果物屋さんがいて、Sさんに桃を頂きました。
日本のと違って小振りで形はやや平たいですが、甘くて美味しいです♪
日差しが強いので果物が美味しく育つらしいです(^^
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●ナグシェ・ロスタム
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アケメネス朝の王墓が岩山に並んでいます。
イラン版王家の谷と言ったところでしょうか。
壁が十字型に掘られていて中心に墓の入り口があり、角度によっては石棺らしき物が見えます。
アレクサンダーに敗れたとは言え、強大な帝国を築いたアケメネス朝の権威は侮れなかったらしく、
後年のサーサーン朝の王であるシャープール1世もナグシェ・ラジャブとこの地にもレリーフを掘っています。
このシャープール1世こそがローマ帝国軍と戦い勝利。
皇帝をも捕虜にし先に訪れたシューシュタルに捕虜を使い水路を作った人です。
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ナグシェ・ロスタム見学後は、次のパサルガダエへ移動。
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移動中恐ろしい話を聞きました。
イランの北東トルクメニスタン国境近くの街マシュハド、そこで記録的な豪雨があり死者まで出たとの事。
今回の旅行では行かなかったんですが、実は初期プランでは行く街でした。
しかも日程が大雨の日直撃!
マシュハドを止めアフヴァーズへ行ったんですが、もし初期プランのままだったら・・・(--;
パサルガダエへ向かう途中では、多くの水田を見掛けました。
イランはお米を食べますが日本同様に地方によって違いがあり、一般的には細く長い粒のが多いですが、
シラーズ近辺では日本米に近い形だそうです。
また、雨はあまり降らないのですが、地下水が豊富で農業が盛んだそうです。
乾燥した岩山の前に広がる水田なんて言う不思議な光景が広がります。
革命前はワインの一大産地だったそうで、シラーズワインと言えばかなり人気のブランドだったそうです。
今ではシラーズワインと言えばオーストラリアですが、これはイランから名前パクった説と株分けした説があるそうです。
土壌もワイン作りに最適で、プライベートで来た某大手の社長さんが勿体無いと嘆いた程だそうです。
革命があったのは約40年前ですが、当然ワイン農家は全て廃業。
技術の断絶は取り返しが効かない事なので、
当時の方達がご存命のうちにシラーズにおけるワイン作りを本に纏めておいて欲しいですね。
さて、今日の昼食はシラーズ名物でもあるキャベツご飯。
レモンが絞ってあって酸味がありますが、見た目は高菜ご飯ですね(^^
イランではお酒が無いので、ノンアルコールビールで喉を潤します。
●パサルガダエ
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アケメネス朝の初期の都で、シューシュに都に移されるまで栄えていたそうです。
ここにはキュロス2世の墓があるのですが、この王は後年の人々にも信奉されていたそうで、
イスラム勢力が来た際には墓の破壊を免れる為に、遺跡の一部の柱などを流用しコーランなどを彫刻、
墓の周りを囲んでイスラムの聖人であるソロモンの王の母の墓だとして破壊を免れたそうです。
イラン国内ではイスラム侵攻時に、このようにして破壊を免れた遺跡が多くあるそうですが、
ソロモン王の名前は非常によく使われており、ソロモン王の~なんて言う地名や場所が多く残っているそうです。
ここの遺跡ガイドブックなどではキュロス2世の墓しかないような扱いですが、実際は広大な都の跡地が残っています。
今は乾燥した大地が広がっているので信じられないですが、かつては巨大な果樹園もあったそうです。
イランの砂漠化は深刻なようで、Sさんも昔ご飯を食べたレストランのすぐ近くには川があったのに、今は無くなってしまったと言ってました。
ここの遺跡は保存状態は決して良くはありませんが、不思議と落ち着く場所でした。
白幡 慎之介(敬称略)